第17回《お結びの会》:講演会

1. 日時:2013年4月13日(土)、13:30〜15:30
2.会場:文京シビックセンター 4階 シルバーホール
3.参加者:27名
4.講師:すずかけ法律事務所 
弁護士 鈴木利廣 氏
5.演題:「老いを生きる」

                            

司会 お結びの会 並木さん

(はじめに)
私は、この9年間明治大学の法科大学院で弁護士、裁判官、検察官を養成する法曹養成課程の教授職をしているのが主で、片手間に弁護士などをしている。 専門は、医事法(medical law)である。チラシのタイトル「暮らしの法律〜老後の安心のために」は、対象が広すぎるので、終末期の問題に絞って話をしたい。
1989年に日本生命倫理学会ができて、日本でも本格的にバイオエシックス、命を考える倫理学、倫理学というと一寸語弊があるが、超学際的な人間の命に関しては、 すべての学問分野を総動員して考えるという壮大な方向性を持って、生命倫理学というのが出てきた。しかし、各論的には、主に医療と命の関係を考えることが中心に なっている。私もその学会に入って、こういうことを少しずつ考えてきた。
 また、いくつかの病院で裁判ケースがある。これには、およそ人間の尊厳を守るようなサポートの仕方をしていたにも関わらず、遺族から訴えがあったり、警察に介 入されたりという事案ではない。本人の意向も家族の意向も確認しないままに延命治療を中止してしまうとか、そういう尊厳死とか安楽死とかという名に値しないよう なものが、過去、東海大学病院とか川崎協同病院とかで起きて社会問題に一時なった。そういう刑事事件になったり、裁判ケースになると表だって医者達も議論し難く なって、しなくなってしまう。本当は、もっとオープンに議論しなければならないが、残念ながらそういうふうにはなかなかなりにくい。
  私がこういうことを考えるようになったきっかけは、1980年代の半ばに出版された2冊の本である。
1冊は、 「死を教える〜死への準備教育」(アルフォンス・デーケン、1986年)である。上智大学のアルフォンス・デーケン先生は、死の準備教育を専門にしている。 アメリカなどでは、「子供と死を語る」というパンフレットなどがある。
 私は、17〜18歳位まで、夜寝るときにこのまま死んでしまうのではないかと思って寝るのが怖かった時期があった。今は全然怖くない。個人的には、心筋梗塞 で死にたいと考えている。だからコレステロール値が高いとうれしくなる。なお、コレステロールが高いと心筋梗塞になりやすいと言われてきたが、最近の研究では、 コレステロールは免疫機能をもっているので、低過ぎるとがんになりやすいと言われている。ある時期、学者たちがトータルコレステロールの正常値を240から220 に下げたが、これによって世界中の正常だった何千万人もの人が、高脂血症という病名をつけられた。そして、スタチン剤が爆発的に売れるようになった。最近の研究では、 コレステロールを下げても心筋梗塞の予防効果はない、つまりスタチン剤に心筋梗塞を予防する力はないということがだんだんわかってきた。
 肉体的、精神的苦痛を伴ってはじめて病気であるが、今は医療界での基準値の変更によって苦痛がなくても病人扱いされてしまう時代でもある。健康とか死の定義もまた 曖昧になっている。
 もう1冊は、40代に乳がんで亡くなった千葉敦子さんの 「よく死ぬことは、よく生きることだ」(1987年)である。著者が述べているように、死を考え るということは、生き様を考えることでもある。この2冊の本あたりが日本でも老いだけでなく、死を考えるということのスタートになったが、残念ながら経済的に豊かに なると、そういうことを考えなくなるのではないか。
  ともかく日本でもここ30年近くは、こういう議論がされてはいるが、何かなかなか先に進まない。それは、制度ができないとか、法律を作ろうとする動きがなかなか 活発化しないということにも影響しているものと思う。
  前置きが長くなったが、本論として6項目に分けて話をしたい。

1. 自分の人生は誰が決めるのか。 父権主義と訳されている 「パターナリズム」という考え方がある。つまり、外向きには父親の権力をもって外の敵から家族を守ってくれる擁護者という良い意味と、内向 きには、家族の中では父親は王様であり、父親の言うことは何でも聞かなければならないという権力主義者の面がある。
つまり、女子供という言い方があるが、女性ではなく男性、子供ではなく大人、障害者ではなく健常者、素人ではなく専門家、というところにパターナリズムという考え方 があって、自分の人生を自分で決めるのではなく、人に決められてしまう。これは、負の部分だけでなく、制度にプラスの面もあるので、この考え方が永く、特に医療との 関係では、医者にすべてを任せるという考え方が一方である。
 他方で1970年代から世界的に、日本でも1980年代位から自分の人生は自分で決めるという自己決定権という考え方が広がってきた。この考え方に関係 する「プライバシー」という日本語にならない概念がある。秘密を守るとか暴かれるという時に使われる言葉であるが、本当の意味はもっと広い。例えて言うと「他人が踏 み込んではいけないその人固有のエリア」といえる。例えば、自分の周りの一定の空間は私の空間であって私の許可なく立ち入ってはいけないという領域のことをプライバ ーという。だからそこに立ち入るためには、その人の了解をえなければいけないし、中で見聞きしたものは、外に持ち出してはいけない。これがプライバシーという考え方 である。
 日常生活での一番分かりやすいプライバシー領域の例は、トイレである。トイレに入っているときに、そこは親であれ神様であれ立ち入ってはいけない所である。ところが 病院には、特に高齢者のいる病棟では、昔からトイレに鍵はかからないわけである。ドアのないトイレさえある。また、寝室もそうである。6人部屋の寝室はカーテンで仕切 られているだけで、これは部屋ではない。ベッドの周りをカーテンで囲われたのがプライバシーである。こういう私に属する領域は私が支配するのだという考え方が自己 決定の基本になっている。
この自己決定、つまり人生の生き死には、自分で決めるという考え方である。自分で決めるということは、もともと「ほっといてくれ」ということから出発する。しかし、 生まれたばかりの赤ん坊は、発言もできないし、1人では生きてゆけない。そうすると弱い立場にいる人は、私に干渉しないでくれというだけでは、その人の人格は守れないわけで、 その人の人格、プライバシーという領域をきちんと守ろうとすれば、弱い人には、きちんとした援助をして自立できるようなサポートをするというのがこの自己決定権の中にだ んだんと含まれてくるようになる。つまり当初の自由を保障しろという自己決定権から、専門家の援助を受けて私が決めるのだという考え方に発展してゆく。専門家や強い人の 援助を受けるという考え方は、日本国憲法第25条の「生存権」という考え方に表れている。自由というものは貧乏な人たちにとっては、貧乏する自由にしかならない。経済的 に恵まれない人にはきちんと資本家や国家が経済的に保障して生活を支えてあげるというのが生存権の考え方である。この生存権の考え方は、20世紀の初頭、最初はドイツで 始まった。そして第二次大戦直後は、腹いっぱい食いたいということであるが、今や腹いっぱい食いたいということが人権だと思っている人は、この国の中では非常に少数であ る。そのうち、メニューを出して俺の買いたいものを買わせろということになる。こうなると自己決定の中身も、強いもの(専門家)の援助を受けながら自分で決めてゆくとい う考え方になってゆく。これが医療で言うところのインフォームド・コンセントである。

2.医療におけるインフォームド・コンセント
医療の中で患者への最も重要な援助が情報提供である。その患者の病気のこと、その患者に対して行う医療行為のことなど、プラスばかりでなくマイナスの情報を提供するから こそ決められるのである。
 お父さんが上から見下ろして「お前、こんなに夜遅く帰ってきて---、うちの門限は何時だと思っているのだ。ちゃんと8時までに帰ってくることを約束しなさい」、「はい、 約束します」というような問答の後、約束を破った息子に「お前が自分で決めたのに何故破ったのだ」と言うような場合、これは約束ではない。本当にその人が自由に意思決定 ができるように専門家や強い人達がどうやってサポートするかというのが自己決定という考え方である。従って、この自己決定権というのは、ある意味でパターナリズムに対抗 することになる。権力を持っている人は、むしろ弱い立場にある人に対して自己決定できるように援助してあげることが重要である。従って自立とか自己決定を育てるという概 念が必要になってくる。この自己決定には、幼児モデル、思春期モデル、大人モデルの3つのモデルが、米国などでは机上で論じられている。つまり、幼児モデルでは、親父が ちゃんと説明して、子供が決められるようにしてあげるが、だんだんと子供が自分で決められる領域を拡げて行ってあげる。思春期モデルでは、ある程度のことは自分で決めら れるようになり、大人になったならば全て自分で決められるというように成長させてゆくというというのが自己決定のモデルである。日本では19歳と364日までは「お前は 子供だ」という風に言って、20歳の誕生日から「今日からお前は一人前の大人だ」というが、実際にはあり得ない。一寸ずつ成長してゆくというのが大事なことである。こう いう風に誰かが決めるということから、自分で決めるという風に大きく社会が変わってゆく訳であるが、そうなってくると、その人自身が決めたことだからそれが一番尊いのだ という考え方がだんだん幅を利かせてくるようになる。
 自己決定の限界に関して一番論争になっているのは、生殖補助医療を受ける代理母問題である。自分のお腹で赤ちゃんを懐胎、出産することができない場合、他の女性にそれを お願いすることであり、精子と卵子をかけあわせてできる受精卵を全然関係のない女性に移殖して、その人に赤ちゃんを産んでもらうことであるが、これは3人が自分たちでどこ からの圧力もなく決めたことだから尊いのではないかというのが自己決定の考え方である。
どちらかというとアメリカは、自己決定万能で、自分で決めたことだから、それを尊重するから、その結果は全部自分で責任を負いなさいというように、ちゃんと自分で決めら れる人間像を目指している。しかしヨーロッパのモデルは、そういう理想的な人間像ではなく、現実の弱い人間を人間像として位置してゆく。例えば何でもかんでも人の世話にな らないで自己責任で全部やれるというのが一人前の人間であると決めたところで、障害を持っていたり、小さな子供であったり、老いがだんだん進んでいったとしたら、自分では 生活できない。よく考えると、健康で金持ちの男でも本当は、自分一人で人生を生きることはできない。そうなってくると、現実の人間の弱さというところに着目して、そういう 人達皆が共存できるためには、どういう社会をつくっていったら良いのかということに考えを及ばせねばならないということになる。例えば、お金さえ払えば、自分の子供を人に 産んでもらえるという社会が本当に人間らしい社会かどうかである。このままであと100年たつと、金持ちの女性は自分のお腹を痛めて自分の子供を産むというそんな「野蛮」 なことはやらない、というような社会が来るのではないか。実際にアジアの貧困なところやアメリカで、そうやって赤ちゃんを産むということがある。金銭のやり取りはいけない とは言うが、間に弁護士などが入って仲介手数料を取って、妊娠期間の生活補助をしたりなどで、金銭が絡まないわけがない。臓器移植だって結局そういう延長線上にあるかもし れない。
関係者だけがみんなで決めて、一番良いと思ったのだからそれで良いというのは、未来の人間社会として本当にそれでよいのだろうかという、自己決定が最も価値の高いものだ という、一寸語弊がある言い方であるが、アメリカ流の考え方とむしろ社会的正義とか公正を基本に考えて、その中で最大限に自己決定を尊重するという枠組みが大事ではないか というヨーロッパ的な考え方がある。
日本ではどちらかというと、ヨーロッパ的な生活の方がなんとなく肌に合うと思いながらも気が付いたときには、アメリカの後ろを追っかけて、どんどん自己責任でアメリカ流 のやり方がはびこってゆくという大きな視野の中で、実は自分の人生を誰が決めるかということも考えなければならない。つまり本人の意思決定は大事だけれども、周りでそれを 支える人達と一緒になって、この小さな家族のあり方から地域社会とか、国とか地球とかを考えてゆくということになるのではないか。
 そういう考え方で医療におけるインフォームド・コンセントを考えると、十分説明を受けた上での同意・承諾という前向きなものだけでなく、拒否と決定・選択という複数の中 から選ぶということにもかかってくる。
 日本語訳としては、コンセントは同意とか承諾であるが、インフォームド・コンセントの概念はどんどん膨らんでおり、英語で言うとinformed refusalとかinformed decision makingとかinformed choiceとか言っているが、そんなに使い分けることもないわけで、インフォームド・コンセントの中にそういう意味を含ませればよい。インフォームド・コン セントというのは、患者の権利である。だから正確に言うと、rights of informed consent、インフォームド・コンセントの権利といわねばならない。ところが医療現場の医者は、 「手術の前にI C(インフォームド・コンセント)とる」という言い方をする。「I Cをとる」、漢字で書くと奪うになる。権利をとってはいけない。正しくは、I Cを保障するとい わねばならない。このとるという言葉に端的に表されているように、これは説明して承諾さえとれば責任を追及されないからというネガティブなところに現場はなってきている。
患者がより良い決定をするためにどうやって専門家を中心にしながら、周りで支えて行くのかという考え方によってI Cは成り立っていることを考えねばならない。説明という形 の専門家の支援であり、情報提供と解説である。この説明の中には、手術をすれば助かる、手術しなければ生命の保障はできない等良いことばかり言ってきた。これでは手術をする 道しかない。手術する道しかないのに選択とはおかしい。実際には、医療行為には危険性が伴っている。「コレステロールが高い。スタチン剤を飲んだ方が良いよ」といっても、 「飲まなければどうなるのか」「飲んだ際の危険性は何か」が問題である。風邪をひいて医者に行くと、風邪症候群で抗生物質を処方することは良くない(ウィルスに抗生物質は効 かない)ということは30年位前から世界中の近代医学の中では言われているが、今でも抗生物質を処方する医者がごく一部ながらいる。「でも先生、この抗生物質飲んだら良いこ とはないし、悪いことばかりだからいらないよ」と喧嘩腰でやるよりも、「これを飲まないと私はどうなるんですか」と聞けば「うん別に----」、「やめときましょう」、「やめと こう」ということになる。
 なお、抗生物質を服用すれば、アナフィラキシ症候群で死ぬことがあるが、それは何十万人に一人かもしれないが、死ぬ人にとっては、死ぬか生きるか2分の1であるから、 あり得ないことではない。そして危険な情報も伝えたうえで「私が患者であれば、私もこういうことをします」という意見を言って、「しかし決めるのはあなたです。質問があれば してください」というべきであるが、I Cは、説明をした、同意をとったという一方通行で運用されている。本当は、説明し対話をして一緒に決めて行きましょうという風になるべきで ある。
早稲田大学の木村利人名誉教授は、「インフォームド・コンセントは、情報と決断の共有」と言っている。つまり、医師が持っている全ての情報を患者と共有して、一緒に決める ということである。意見の対立というのは、実は持っている情報が異なっているからである。情報がきちっと共有できていればほとんど意見も一致してくる。
実は民主主義の理念は、多数決だといわれることが多いが、そうではなく、全員一致を目指すことである。しかし全員へとへとになって情報を共有しても、何処かで決めなければい けないということで、苦渋の選択として、多数決で決めるというやり方が民主主義である。
 インフォームド・コンセントもまた情報と決断を共有して、医者と患者が一緒に決めるべきである。同じ結論に達するまで情報を共有するというのが、理念型ということになる。
自己決定ということは最善の選択(best choice)であることもあるが、苦渋の選択、今こういう状況の中でこういうふうに決めるのが、ベターというより、仕方ないから選ぼうじゃ ないかというのも自己決定である。こういうところで自己責任が生じるが、人間の意思決定というのは、そういうものである。
  それから推定的承諾というのは、多分あの人だったらこういう風に決めるだろうというものであり、消極的同意という「まあ、仕方がないね。あなたが言うのならば、それでもいいや」 という決め方から「是非これにしてくれ」というところまで人間の意思決定には、凄く幅がある。そういう時に、決めたという一事でもって、責任を持たせるのではなく、それをどう すれば納得ということを介在してゆくのかどうかということになる。
 理解能力に応じた支援ということも大事である。幼児モデルから成人モデルまで成長させてゆくことの中で、理解能力が十分でない場合の支援である。法律的には理解能力がない人 には説明は不要である。
 しかし、例えば子供には、説明不要なので、親だけに説明して承諾を得れば形式論的には良いが、しかし人間の成長を考えた場合、理解能力に応じた支援の仕方があり、これは英語 ではinformed consentに対してinformed assentという言葉を、特に子供の場合によく使う。assentもconsentもどちらも同意とか承諾と訳すが、多少ニュアンスが違うようである。 日本語には適訳がない。つまり、例えば10歳の子供が手術するときに、ちゃんと説明をして、その子の理解能力の及ぶ範囲で説明する。そのうえで医師やお父さんお母さんも「君が 手術をした方がいいと思うけど---、どうだろうか」とちゃんと意見を聞く。そういうプロセスを経て一緒に決めて行く。しかし、その子供はまだ目の前の怖さだけで手術を拒否すると いうようなことがあって、手術を拒否すると命が危ないからそれでもやはり手術はしようよという時に、少しはそこに強制力を働かせながら、しかしその子の言うことはきちんと受け 止めながら決めて行く。つまり、法律的には、アセントに意味はないが、一緒に決めて行くとか、成長してゆくという意味ではすごく重要な言葉としてインフォームド・アセントがある。 いま、例えば認知症の患者に対して、「あの人は良くわかっていないから説明しなくていいんだよ。家族にさえ言っておけばいいんだ。」というのは、インフォームド・アセントの考え 方からすると間違っている。認知症でもまだらになっていて、或いは関心事によっては、理解能力は全然違うわけである。それから、自分で決めると責任を負わねばならないので、知ら ないふりをする人も多分いる。そういう時にちゃんとその人の能力に応じて意見を聞いてあげて、一緒に決めて行くということが必要である。
 西欧社会というのは、個人が決めるという考え方であるが、どちらかというとアジアとか日本は、みんなで決めて行く。このみんなで決めるという中に、家族のかかわりとか、後見の 選任とかについて、インフォームド・コンセントの考え方もきちんとしていることが大事である。
 つい先日、被後見人になった30歳代の女性が選挙権を奪われるという件に関する判決があった。一律に選挙権を奪うのは、違法であるというのが東京地裁の考え方である。昔は、 どちらかというと、こうゆう連中はこうしようとする。グループ分けして、皆そうする。しかしこれは、実は人権を保障したことにならない。女はみんなこう、男はみんなこうというよ うに2つには、分けられるものではない。実は生物学的にも典型的な男と典型的な女の間には、限りなく男に近い女と、女に近い男がいるわけである。実は、性分化というのは、もとも と黙っていれば女になってゆくが、途中で睾丸形成遺伝子が働いて、男に性分化してゆく訳であるから、その分化が中途半端であれば、男になりきれないというのは、生物学的には起こ りうる。従って、「女々しい」という言葉もおかしい。男と女なんて本当は、生物学的に冷静に見ると、はっきりと区別できないものかもしれない。
 アメリカのスター・ウォーズなんか、動物の体をしているのに英語をしゃべっている。きっと将来は人間以外の動物と人間の区別がつかなくなるかもしれない。そういうふうに、 グループ分けするのではなく、一人一人の個性に応じて、その人をきちんと守ってあげること、その人の意思決定を保障してあげるためには、法的、社会的な制度だけでなく、家族の かかわりとか後見とか、専門家の役割とかがインフォームド・コンセントについては、重要になってくる。

3.死に方を選択する 
    さて、死に方を選択するということでは、まず、自殺が許されるのかという問題がある。宗教的に自殺を許さない国もある。しかし、自殺をすることに法が関与しないという国もある。 米国で ケヴォーキアンという医者が自殺器(自殺援助器)を開発して、それをレンタルで貸してあげた。これは静脈に針を刺して点滴で、最初睡眠薬が入り、完全に眠ったところに筋弛緩剤 が入ってきて、筋肉が弛緩する、つまり心臓が動かなくなって死ねるという安楽死の道具である。このケヴォーキアンというアメリカの医者は、自殺を助けても罪にならないという州法の あるアメリカの或る州で貸しまくった。ところが、うっかり彼は自殺幇助罪のある州で貸したために逮捕されてしまう。日本は人を教唆若しくは幇助して自殺させる、若しくはその嘱託を 受け、若しくはその承諾を得て殺したものは、自殺勧誘罪とか同意殺人罪になる。自殺することは、法の観点からみて、日本では違法である。しかし、自殺した人は、あの世までは追っか けて行けないので、処罰なしである。問題は、自殺未遂者である。自殺未遂者を罰する国もあるが、日本では処罰しない。それは、自殺に追い込まれた人には責任はないという刑法学の考 え方があって、処罰はしない。しかし、自殺することは社会的にみて良くないことだという価値観は、日本の法律の中には頑としてある。従って、死を助けるということは原則的に違法だ という考え方できた。
 尊厳死というのは、積極的に死なせるのではなく、生きるための援助を打ち切るということで、消極的安楽死である。しかし、こういうことが法律的に許されるのであれば、少なくとも ご本人の意思がなければ駄目である。これがなければ殺人である。そして、本人の意思があっても、駄目だということで、尊厳死や安楽死が許されるためのきわめて限定的な要件が付く。 つまり、この国では、自分の命を自分で止めることは法が許さない。かろうじて、法が許すという場合には、きわめて限定的な条件が付くというのがこの尊厳死や安楽死の考え方である。
 生命の尊厳、命を守るのか、個人の尊厳(自己決定)を守るのかという対立軸の中で、自己決定を守れという考え方の人は、治療というのは全ての人間の命を回復できるわけではない ので、治療には限界がある。そして病気には苦痛がある。尊厳ある死を実現したいならば、自分の命は自分で決めるという自己決定権の考え方は尊いのだ。そして家族の負担や社会的負担 の軽減も考えて、一定の条件さえ整えば、もう生きることを止めるということを社会が認めても良いのではないかという声があがる。
 生命の尊厳の立場からは、生命は何よりも尊いものである。特に人間の命が尊いと考える。そして自殺の権利はない。死に値する人間がいるとすれば、それは優生思想、一度滑り出したら 途中では止められない慈悲殺への危険な坂にさしかかってしまう。
また、医学的判断は不確実なもので、医者があと一週間の命と言っても本当に1週間かどうかはわからない。アメリカで カレン・アン・クインランという、1970年代半ばに向精神薬と お酒を一緒に飲んで意識がなくなった女性が、元気な時に両親と一緒に植物状態の人を見舞ったときに、私はこういう生き方はしたくないと言っていたということで、両親が「カレンは、 人口呼吸器につながれて、こういう植物状態で生きて行くことを望まない」と言って、連邦最高裁に訴えて人工呼吸器を外したが、専門家からせいぜい1週間の命と言われていたが、カレン はその後10年生きるわけであり、医者の生命予後判断は極めて曖昧、不確実である。
今夜が山場かもしれないというのは当たるが、あと1週間、1ヶ月、3ヵ月というのは、統計上の数値を言っているにすぎず、個々の患者との関係では不確実なものである。この個人の 尊厳と生命の尊厳はいまだに対立していて、どちらが正しいということは言い切れない。因みに、人間の生命が非常に尊いということは、皆が認めると思うが、実は人間の命が尊いのは、 有限だから尊いのである。人生50年の時代の方が人間の命は、尊かったかもしれない。
 もう一つ、負の部分としては、人間の命が尊いのは、人間以外の命よりも人間の方が尊いという意味を含んでいる。だから人間の命以外の生き物については、人間はランクをつけている。 動物の権利を主張する人達は、動物の内でも哺乳類のイルカなんかは、ちゃんと頭で考えている動物だから、人間と同じように扱わねばならないという。しかし、命は雑草1本にもある。 従って、人間の命をあまりにも過度に尊重しすぎると、逆に命の差別を生む優生思想にもつながってゆく。

  4.尊厳死を許容するための法律的論点
 さて、尊厳死を許容するためには、最小限、本人の意思が必要ということでは一致している。この本人の意思というのは、「私がこういう状況になったらもう命を永らえる治療はやめて 下さい」と書面ではっきり書く、あるいは書かなくても明示的意思が必要か、或いは推定的意思で良いのかという問題がある。「あの親父は、元気な時を思い浮かべると、こういう状態に なったら、もう治療をやめてくれ」というような性格だということを皆で推測する、或いは言動で推測する、或いは本人の思っていることは良くわからないけれど、永く一緒にいた家族だ からこそ本人の意思を忖度できる。「うちの親父だったらこんな生き方はしたくないはずだ」など、明示から忖度まで非常に大きな幅がある。
どこで本人の意思とみるかという問題がある。意思も消極的受け入れから積極的なものまである。より確実に生命維持治療を外すためには、 「尊厳死協会」とか「終末期を考える市民の会」などが作っているリビング・ウィル(生前発効遺言)という書面をちゃんと書いておく方が確実である。しかし書面を書いたからといっても、今日書いて来年の今頃にショック状態に なった場合、その時点の意思が本当は大事である。1年前に書いた意思は、来年である今を推定するだけである。書面で書いても何年たってもずっと同じ気持でいるかどうかは、わからない。 遺言も同じである。遺言はいくらでも書き直せるが、後で書いた遺言が有効である。従って、リビング・ウィルも1年に1回位その時の心境を反映して書きかえたほうが良いとはいえる。
それからどんな状態になったらそういうことが許されるのか。死が切迫している末期に限るというのが日本の裁判所の考え方である。遷延性意識障害、いわゆる植物状態になったカレン ・アン・クインランの場合には、適用できない。死が切迫しているというのは、きわめて曖昧な言い方で、1夜から3ヵ月位の認識の差がある。終末期、末期という言い方にも大きな幅がある。
なしうる方策について、治療を全くしないということだけなのか、やった治療を途中で止められるのか。自民党が解散前に出した法案は、治療の差し控えだけであった。これは非常に曖昧 である。つまり、生命維持治療を1回したら生命は持続しているので、それを止めるのは作為的にやることになるので、何もやらないで死ぬという尊厳死よりも安楽死に近づくのだという 解釈もできるが、差し控えしか許されないと、急性期にきちんとした治療をすれば命が永らえるときも、1回付けてしまえばもう外せなくなるから付けるのをやめておこうかということに なる。これは命を粗末にする方向に動いてしまう。差し控え中止の治療行為の範囲は、人工呼吸器のみか、経管栄養も入るのかという問題もある。カレン・アン・クインランは呼吸器を外 したが経管栄養はつけていたので、自発呼吸が出てずっと生きていたが、その後にアメリカで同じような事件が起きた。この事案の場合には、経管医療を外すかどうかが議論になった。 つまり、意識はないが自発呼吸があるので経管栄養を外さないと死ねないわけなので、これを外すかどうか、すなわち餓死させるかどうかが問題になった。
そして次の事件が起きた。若い妻が意識障害になり、人工呼吸器と経管栄養で命を永らえていて、本人はリビング・ウィルで意思を残してはいなかったが、その夫が外してくれと言った のに対し、妻の両親は最後まできちんと治療を続けてほしいと言って争いになった。最高裁判所は夫に軍配を上げてしまった。従って現在、アメリカでは、餓死させるというところまで認 めている。
 それから、そういうことをやれるのは医療者に限るのか、家族もやってよいのかが問題である。オランダでは、安楽死まで認める法律ができた。この場合、きちんと医者が管理し、 しかも複数の医師が判断し、死んだ後ちゃんと検視官が来て調べる。そして始めて、その医師は殺人罪から免れる。そういう厳格な手続きをやりながら死を早めるというやり方を 社会的な仕組みの中に入れている。許容条件の事前審査と事後的検証の仕組みを、日本ではそこまで議論されないが、オランダなどは仕組みの中に入れている。
 社会的なルールは、法律で作る必要があるか、それとも最近soft lawと言う、何らかのガイドラインでよいのかも問題である。国会で作った法律なのか、専門家委員会などで決めて 役所がそれを認証して行くガイドラインでよいのかという問題である。そうして医療者を法的に免責することが必要となる。
 これまで尊厳死法と言うのは、尊厳死協会が取り組んできている。これまで、医者に刑事捜査が入るという事件が幾つかある。それで医者は、自分達が刑事処罰の対象になるのは いやだという要素があって、法律を作ろうという動きもある。

5.食べられなくなったらどうする
 胃ろうは、急性疾患で一時的に食べられないという人の為に、お腹に穴をあけて、栄養を入れるというやり方から始まったが、今は、特に認知症の患者とか年寄で食べられない人に胃ろう をやるということが非常に進んできた。一時的なことでやるのは、それは命を尊重するということで、何の問題もないが、年寄りの為に食べられなくなったから胃ろうをつくるというのは、 それは食べなければ餓死してしまうということで、しかもそれを口から食べさせれば、気管に入って気管支肺炎を起こし死んでしまうということで、食べることで肺炎が起こることを防ぐ ことで、胃ろうを使うようになった。
 最近では、むしろ胃ろうをつくることで口の中で雑菌がはびこる。それが肺炎の原因である。だから胃ろうによって肺炎を防ぐと言っているが、胃ろうをやれば別の肺炎がおこる ことになるが、肺炎防止ということを考えたら胃ろうが必ずしも役に立っているわけではない。
 それから一時的に胃ろうをやってちゃんとトレーニングして経口摂取に戻れる人も少なくない。しかし、胃ろうをやってしまうと経口摂取の練習をしなくてもその方が管理が楽だと いうようになってしまうので、一生胃ろうをつけっ放しになってしまうともいわれる。
更には最近では、年寄りが食べないのは、死が近づいてきたから食べないのだという意見もある。人間が死ぬという、いわゆる老衰が近づいてくるということは、食べなくなることが 当たり前のことである。その当たり前をどうして、無理やり胃ろうをつくって食物を入れようとするのだろうかという考え方から、高齢の患者に対して胃ろうやることに消極的な医師も ふえてきて、ここ数年大きな話題になっている。

6.生命は誰のものか
 命はだれのものか? 本人の意思を明確にしておくということが、自分の生き方を家族に伝えることになるし、家族がどうしてあげれば一番本人が幸せな終末期をむかえることができる のかという選択の数少ない基準になるのは、やはり本人の意思である。特に、家族の中でもだんだんと語りが少ない社会になってきているので、本人の意思を明らかにしておくことは、 何があっても大事なことだろうと思う。
 財産的なものについては、遺言書を書く方が最近増えているが、財産的なことだけを書くのでなく、自分のしたいことはきちっと残しておくことが大事である。そして、医師や看護師 にもきちんと伝えて、本人がどうしたいのかということを、医療者、患者、家族関係をよりよくしてゆくための道具にしてゆくということが重要ではないかと思う。きちんとした人間関係 がない忙しい医療現場の中で杓子定規にそれを運用されると、この人は生命維持医療をやらなくてもいい人なのだから何もしなくていいよ、と言うようになってしまう。
 家族の中でも、医療者とよい関係があって、本人の意思を尊重していて、最後閉じたいときに法や警察が介入するのはおかしな社会だといえる。
法が介入する事案はほとんど本人の意思などはない。しかもそれが発覚するのは、内部告発である。だからお粗末な医療が行われている中で警察が介入するということで、本当に家族 や医療者関係がきちんと円滑に行っているものに法や警察が介入することがあってはいけない。いずれ法ができるかもしれないが、法ができなくても家族みんなで最後の閉じ方を決めて 行くということにしてゆけば良いのだろうと思う。
 私の生母は、最期に大腸がんを患ったが、手術を拒んで入院後丁度1年位たって、家族の見守る前で息を引き取った。主治医との関係も良く、結局、大腸がんと知りながら、本人の意思 でがんの切除手術という延命治療をしないで、納得して死んでいった。また、養母も腎不全になり、人工透析が必要になったが、本人がこれを嫌がり、やらなかったので、だんだんと悪く なり、なくなる前日の夜、目を開けて「もういいから-----」と言って亡くなった。80歳代半ばで亡くなった2人の母親は、人生を全うしたと思う。尊厳死したとは思わない。死を早め たとも思えない。母親がどういう死に方をしたいのかということを家族にそれとなく、話してくれていたからそういうことを一緒にやることができたのではないか。身寄りがなく、1人住 まいの方はいっそう大変だと思うので、その時地域で対応してゆくべきではないか。

≪質疑応答≫
Q1:何日か前に、テレビを見ていたら、まだお腹の中にいる障害を持った赤ちゃんを堕胎させるかどうかの議論があった。障害の有無を調べるのは、赤ちゃんがかなり 大きくなってからなので、堕胎するのは殺人ではないかと、家庭内で議論が起きた。どう考えたらよいか、話を聞かせてほしい。
A:最近 新型出生前診断として新聞、テレビにも多く報じられているが、昔との違いは、昔はそれなりに危険性を伴う羊水検査が必要であったが、今は手軽な血液検査 だけでできるようになったため、お金さえ払えば、容易にできる。しかもそれを国や自治体が補助してゆけば、妊婦の経済的負担なしにもできる。従来は羊水検査をするというのは、妊娠 初期に風疹に罹っているとか、何らかの障害児を産む因子が見える形で出てきた場合など、極めて限定的であった。
 1970年代に当時の兵庫県知事が、「障害児のない社会をつくろう」ということで、出生前検査(羊水検査)をさせるということを発言して、大問題となった。だから技術が進んで きて、手軽に出来るようになったというところがさらにそれに拍車をかけているだけで、こういう議論というのは昔からある。これは命というものをどういう風に考えるのか、しかもそれ は自己決定と言うが、はたして妊婦さんの自己決定で赤ちゃんの命を決めて良いのかどうかという問題もある。
 日本の歴史の中では、障害児を殺してきた事例がいっぱいある。例えば1950年代のサリドマイド事件もそうである。サリドマイド児は、1,200人位は生きて生まれているはずであ るが、サリドマイド・ベビーとして認定されたのは、309人しかいない。この900人の差はどうしたのだろうか。これは障害児として生まれてくるが、死産にしてしまったのではない かと思う。産婦人科医と家族が相談すれば、赤ちゃんの命なんか簡単に抹殺できる。
こういう事は、ハンセン病療養所の中では戦前からずっと行われてきた。ハンセン病患者から生まれた赤ん坊を殺してきた。ハンセン病というのは遺伝ではなく、極めて感染力も弱い。 しかも小さい頃に身近にハンセン病の人達がいたときに感染して、それが大体10歳から15歳位になって発病する。しかも1940年代に治療薬ができていたのに、1960年代まで 堕胎して殺していった。このように何らかの問題のある子供を殺してきたという歴史は、今に始まったことではない。そういう歴史を学びながら命の尊さを考えて、障害児が皆の援助は 受けながら、生きやすい社会をつくってゆかなければならない
。 しかし、まさに苦渋の選択です。貧乏なところで障害児を産んだらどんなことになるのか、家庭が崩壊するのではないか。苦渋の選択でこの児に死んでもらおうかとの考えを一概に 「お前は人を殺した」と責められるかという問題もある。一方で、命の教育をやりながら、みんなでそれを支えようじゃないか、みんなで育てて行こうよということがあれば、産みや すい社会となる。それを個人責任だけでやってゆくところに問題があるのであって、それを出生前診断という技術のせいにしてゆけば、また別の技術が多分出てくるのだろうと思う。
 薬害被害者が、薬害を防止するために作ったスローガンでは、「薬害の原因が薬だと思っていませんか」と言っている。まさか人殺しの原因が包丁だという人はいない。つまり薬や 包丁を扱っている人の人災だと言いたいわけである。従ってそういう技術ができたときには、その技術を人間の力でコントロールしてゆかねばならないが、当面はその技術は使うべきで ない、つぶすべきだというところに議論が集中してしまうが、技術をつぶしても、やっぱり同じ発想は、社会が変わってゆかない以上は次々に出てくる。そしてこの国では絶対にやられ ていないはずだと思っていたものが、ある日突然明るみに出るということがある。
 お腹の中で、ずっと育てて行く中で、これらのことを考えることにより、やっぱり産もうという人達が少しずつでも増えてくる。考えるプロセスがなければ短絡的に中絶してしまおう、 忘れてしまおうということになってしまう。だからおおっぴらにそういうことを議論できるようにしてゆくより方法がないと思う。
司会:幼児を葬る場所(池)に人が立ち入らないようにするために河童伝説ができたともいわれている。

Q2:遺言状は、法的には公正証書による遺言と自筆の遺言状があるということだが、実は友人が毎年書き換えていて、最後に、自分の次男は嫌いだから、あの人には 残さないで下さいと書いたものが出てきた。この場合、一番後に書いたものが有効なのか。
A: その通り、遺言には、その形式を踏まないと有効な遺言にならない。
 公正証書遺言には、2人証人が必要で、相続人は証人にはなれない。公証人のところへ行って、自分の遺言の中身を話して、乃至はメモしたものを持参して、公証人の確認後、 文書にしてもらい、本人及び証人2人も署名する。これは公証人という他人や証人という知り合いに中味を知らせなければいけないということで、一寸精神的に負担がかかるかもしれ ないが、信託会社とか法律事務所で証人も用意してくれるので、家族に内緒で公正証書遺言をつくることができる。自分が1通持っているほか公証役場に原本があるので、中身を確実 に守ることができる。しかも、その人がちゃんと遺言をつくる能力があったかどうかということについては、公証人が確認するので、なかなか無効にし難い。
 一方、自筆証書の場合には、全部自分で書かなければならない。しかも、日付と署名が必要になるので、字を間違えれば訂正印まで必要になるので、公証人役場で作る方が楽ではある。 自筆証書は死亡後、家裁の検認という手続きを経ねばならない。本当に本人が書いたものかどうかを相続人全員が確認する必要がある。
 もう一つは、秘密証書と言って、封をして中身を見せないものがあるが、余り多く使われていない。
 遺言の中身については、遺言を何のために書くのかということを少し考えたほうが良い。遺言は、自分が死んだ後に、自分の財産や自分のことをどんなふうにしてほしいのか書くわ けあるが、法律的には相続人間の争いを最小限に食い止めるという役割を担っている。あいつは嫌いとか書くのは、相続人間の争いに火をつけることになる。本来的には、なくなった あと相続人が喧嘩をしなくて良いようにすることである。
亡くなった人に遺言がある場合に、中味は見てない、これを開いてギクシャクするのが嫌だから、遺言状を無いことにしてみんなで決めようかという、故人の遺志を二の次にしてしま う方法もある。それでだめならば、遺言を開けばよい。

Q3:公正証書にした場合、10年もたって気持ちが変わった場合、どうすれば良いか。
A:書き換えればよい。

Q4:今。30万円の遺産があったとして、死ぬ前に10万円は「お結びの会」に、この10万円は母校のために、残りの10万円は好きにしなさいと遺言に書いて 死んだ場合は、どうなるのか。
A:法律上は、遺留分という制度があって、法定相続人は、どんな遺言があっても、法廷相続分の半分はもらえる。昔は、跡取り息子にみなやってしまうという時代 であった。今は法定相続人を保護するためにこの制度がある。しかし、この場合も不動産や株の評価などでは争いが起こることがある。自分の遺産をどういうふうに分けようとしてい るのかを相続人達が知らないと、相続人が疑心暗鬼になり、家族内がギクシャクすることがある。

Q5:負の財産の場合はどうなるのか。
A:借金はマイナスとして計算する。バブルの時は、不動産の価値がどんどん上がり、相続財産が空想の世界で増えて行く。そのため、銀行から借金をして負の財産 をつくり、その借金でビルを建てて、相続財産をへらして相続税対策をした。つまり、1,000万円の土地が1億円の土地になった場合、そこに9,000万円の借金をして、建物を 建てて、その建物は不動産評価としては、9,000万円かけた建物であっても、評価は下がる。1億の土地と1評価の低い建物と9,000万円の借金ということになり、相続財産は ぐっと圧縮されることになるので、多くの人が建物を建てた。しかしバブルが崩壊して払えなくなってそれを売る羽目になった。

Q6:尊厳死協会より公正役場で作った方が良いというので、公正役場で、何かあった場合も延命はしないということを明記して、尊厳死と安楽死の書類を作って もらったが、1人暮らしなので、もし何かあった場合、救急車に乗った場合、救急車ではどの程度のことをやってくれるのか。もし、延命装置をつけられてしまったなら、はずせない とのことなので、救急車を呼ぶのをやめようかとも思っているが、やはり怖くなって、呼んでしまうかもしれない。公正証書を持ち出せるかどうかも心配である。
 A:体調が悪くなったときに、それが急性期の一時的なものか、死に向かっての危険な坂を転げ落ちているのかの区別がつかない。一時的なものであれば、ほんの ちょっと治療しただけで又元気になるのであれば、元気になりたいだろう。救急車は、急性疾患として対応するしかないので、心臓が止まっておれば蘇生するし、呼吸が危なければマ スクをして酸素を入れる。挿管までできる人が救急車に乗っている場合は非常に少ないので、やれる限りのことはやるというのが、救急の概念である。

Q7:安楽死の公正証書があれば、延命しないのか。
 A:いや、そうとは限らない。

Q8:うちの母は、練馬区に住んでいるが、やはり同様の手続きをしていて、自分の胸にかけている。そして、もし救急車が来たときには、区役所の指導もあり、 一番目に付くところである玄関ドアの裏側に娘である私の連絡先とか公正証書に書いてあるように、延命治療はしないでくださいと書いて張ってある。
A:しかし例えば、食物を詰まらせて救急車を呼んだ場合、一時的にそれを取れば元の体に戻るという時に、取らないでくださいというふうには解釈しない。問題は 延命治療をすると外せなくなるという考え方自体がおかしいと思う。延命治療は、やるのも外すのも行為としては、同じである。ところが、やらないことは何もやらないことであるが、 延命治療を外すというのは、死ぬように何かをするというふうに区分けするからそういうふうになるが、そんな区分けをしているのは日本位だと思う。
 本来は急性期にやるべきことはやって、慢性期になってもう意識が回復しないとか、意識は回復するが寝たきりになるとか、もうこれ以上治療はやめて下さいとかいう判断は、慢性期 になって初めてすべきことなのに、仕組みがいい加減なので、そんなのなら最初から死んじゃおうかみたいなことになる。これは「よく生きること」にはならない。

Q9:せっかく公証証書をつくったのに、それが大変心配である。
 A:因みに、あなたが延命治療をしたくない理由は何ですか?
Q10:私はがんを患っており、手術をしたが、抗がん剤を打っていないので再発の心配をしている。ピンピンコロリで逝きたい。
 A:再発した時に考えればよいのではないか。がんは再発しても、いきなり死んだりはしない。

Q11:公正証書にはどの程度の効力があるのか。
 A:公正証書遺言は、法律的なものなので、財産をどうするかということに拘束力を持っているが、延命治療しないでくれということについては、拘束力を 持っているものではない。それは、あなたの意思がそうだということで、その意思をどれだけ医者とか家族が治療プロセスで尊重するかという話である。
生前発効遺言という変な日本語がついているリビング・ウィルは、外国では法制化している国があるが、日本ではそういう仕組みそのものがないので、それは周りの人がその公正証書 に書いてあるあなたの意思をどこまで尊重するのかということであるので、書いてあるから大丈夫という訳ではないので、書いた内容を周りの人も伝え、お願いしておけば、周りの人 も尊重してくれることになる。

Q12:うちには90歳を超える母がいるが、たまたま来宅した保険屋さんの話では、1人住まいの年寄が亡くなったり、病院に入ったりした時、連絡が取れ なくなり、保険の支払先が不明になって困ることもあるとの話があった。また、医療費としておろせるものが、手続きがとれなくなっているので、あなたの名前を登録してくれと言わ れたので、手続きをして名前も入れたので、母が入院すれば、保険等は私が手続きすればおりるようになったが、保険以外の銀行とか金融関係でも同様のことはできないのか。
 A:個別に登録すればよいが、本人の意思によるので、本人でなければできない。従って、本人が元気なうちにやっておく必要がある。  (文責:荒木)