第11回《お結びの会》:講演会

1. 日時:2010年10月30日(土)、18:30〜20:30
2.会場:文京シビックセンター3階 障害者会館会議室AB
3.参加者:20名
4.講師:都市計画家/まちづくりカンパニー・シープネットワーク代表取締役 西郷真理子氏
5.公演題目:「ほんとうのまちづくり」

                            

司会 「お結びの会」 藤原美佐子

(講演に先立ち、司会者より西郷女史が「
ウーマン・オブ・ザ・イヤー2010」を受賞されたことが紹介された)

6.講演要旨(案)
1964年の東京オリンピックが終わり、1970年の大阪万博の頃に時代の雰囲気が変わった。日本の高度成長期にあたるこのころ大学に入った私は、ニュータウンをつくったりすることが 良いことと思っていたが、入学後はニュータウンよりは歴史のあるまちの方が素晴らしいものを持っていると思い始めた。歴史のあるまちに行ってみると、まちの人たちがそれを誇り に思っていることに感動し、その町の人のお手伝いをしたいと思い始めた。当時の都市計画は、公共福祉等に関して大きなところで決まったことを下に降ろしてゆくということで、 住民が都市計画を考えるというようなことは考えられない時代であった。今は、住民が自分たちのまちを考えることの大切さが認識され、やっと制度にもなり、都市計画の提案制度も でてきたが、大きな流れはまだそこまで行っていない。今日の話は、全て地方都市についてであり、大都市の開発とは若干違う点もあるかもしれないが、参考にしていただければと思う。 因みに文京区のことでいえば、とても良い住宅地であるにもかかわらず、そのコンセプトと違う開発がどんどん行われている気がする。もっとその良さを生かせたら素晴らしいまちに なると思われる。(以下は、スライド中心に講演)

地方都市再生「タウンマネージメント・プログラム」
≪はじめに≫
@ 人口の動向
2005年をピークとして、日本の人口は、減少しており、2050年には9000万人程度になるといわれているが、これは丁度1970年頃の人口と同じである。当時のまちは比較的コンパクトにできていて、 まだスプロール化していない。したがって、その位のまちの大きさをイメージしながらまちのビジョンを考えたらよいのではなかろうか。
   A 人口密度の低下
 ・DID人口と面積:成長のピーク(1970年代)は過ぎたが、今なお成長が続いている。ただし面積は3倍になったが、人口は2倍になるにとどまった。
 ・DID人口密度:1960年から1995年にかけて減少の一途をたどり、1990年には70人/haを割り、1995年には66人/haとなった。これを都市規模別にみると50万人以上の都市を除いて 低下を続けている。特に10〜20万人都市は43人/haで、DIDの定義である10人/haに近づいている。すなわちスカスカの都市ができて、スプロール化している。空家は、郊外、まちの中とも増えている。
 B 家族の変化:1995年から2005年にかけて、夫婦と子供から成る世帯の比率が減少(34.2%→26.6%)する一方単身世帯(25.6%→29.7%)及び夫婦のみの世帯(17.4%→21.9%)は、増加している。
 C コンパクト・シティへ:歩いて行ける範囲で暮らせるコンパクト・シティは、高齢者にとっては、就業、文化活動、友人などとの交流、買い物、病院など全ての面で有利である。女性にとっては、 これから女性の就業率が高まるが、特に大都市では必要性が高い通勤時間の短縮が可能となる。また、子供にとっては、多様な機能が混じり合うまちの中で学校以外の社会的活動や文化的な機会を 増やすことができる。
 D  コンパクト・シティへの隘路
  英国では、自然を壊す開発は、ダメとの国民的合意があり、都市計画もこれに従っているのに対し、日本はまだ自然があり過ぎるゆえに自然を壊して開発してゆくことに全く抵抗感がない。 また、日本独特の土地問題があり、これを解決する必要がある。
   E 地方中心市街地の課題
・ 土地建物の権利の錯綜:土地が狭小化しており、権利が錯綜している。
・ 業種構成が適切でない:新陳代謝が行われなくなり、時代のニーズにあった業種構成となっていない。
・ 空間が快適でない:陳腐化した老朽アーケード、カラー舗装のみであり、ベンチも、緑も、水もない。また、看板の乱立、汚い店舗等、中心部として魅力ある空間となっていない。
・ 居住人口が少ない:高齢化した単身世帯が多い。
・ 土地価格が適正でない:土地価格は下落している。例えば高松の最盛期の坪あたり価格は、\2,000万であったが、現在は\100万程度まで下がった。それでも郊外大型店が出店する ような地区と比較すると10倍以上の開きがある。その結果、投資を行う人や会社がなく、投資が行われない。

≪まとめ≫ @ 都市空間/デザイン----都市空間が美しくない。居住性が良くない。人が住んでいない。また、適切なゾーニングがされていない。
A 主体構造----衰退傾向のある地域では事業を推進する主体がなく、また、投資をする人達がいない。
B 事業スキーム----土地費が高く、また、権利関係が錯綜している。
これらの問題を解消し、中心市街地を再生させるためには、都市空間/デザインについては、美しい町並、賑やかな広場、くつろげる空間及び快適な住宅が必要となる。 主体/組織については、米国のCDC(Community Development Corporation)に相当する住民・市民が担う開発・運営主体の構築が必要となる。また、事業スキームについては、 土地建物にかかわる所有と利用の分離及び地価を顕在化させないスキームによる事業の安定化が必要である。

≪ケース1≫:川越一番街
川越は東武東上線で池袋から30分で行ける便利な所である。1960年代の高度成長期には、東京都の人口が年間で30万人増えていた。この人達のための住宅が必要となったため、 多くの団地がつくられた。公的な団地のほか郊外にも多くの住宅地が広がっていった。川越も住宅団地に適していたため、通常ならば古い家屋を壊して団地化するが、 川越の場合は何故か古い建物が残っていた。これは、一つには川越の人達がこういう古い建物に誇りを持っていたこともあるが、もう一方では、マンション建設推進派 と意見がバラバラで纏まらなかったこともある。さらに都市計画道路が入っていたこともあり、結果として残った。ところで、川越は1970年に伝統的な建物を活かしな がら都市計画をしようという「伝建地区」調査をしたが、時期尚早ということで住民の合意が得られなかった。しかし1980年頃一番街の一角にマンションができたため、 これを見て、このようなマンションが連なるようなまちは自分達が求めているまちではないという考えに到達し、蔵造りを保存しながらのまちづくりが始まった。
 1983年5月に「川越蔵の会」を発足させた。当時、「ナショナル・トラスト」運動が日本に紹介されていたので、 この影響を受け、そういったものを日本でもできないかということを住民のリーダー、市の関係者及び専門家等が考え、この会をつくった。
この会の活動目的は、下記の通り。
・住民が主体となったまちおこし
・商店街の活性化による景観保存---活性化するために保存するのではなく、保存のためにこそ活性化が必要
・ 町並保存のための組織形成 ・その他
 今でこそこういうNPO団体は、まちづくりの主体であるが、30年近く前の1983年頃は、商店街のことは商店街が、市民はまた別のことをという具合で、一緒になってまちづくりをするということはなかった。 そういう意味でもこの会の方向は、進んでいたと思う。  なお、ハードの整備(店舗改装、道路整備、核施設の建設等)は、当時の経産省がつくっていた「コミュニティマート構想」を利用してを行った。  まちづくりの2本柱は、合意形成のシステムである町並委員会と開発のシステムを担当する町づくり会社(コミュニティに根差したディベロッパー)である。 1987年4月には、市長や商工会議所会頭も招いて、町並委員会が発足した。1998年4月には千葉大福川先生の協力を得て住民が67項目からなる「川越一番街・町づくり規範」を作成した。 この「規範」には、以下のような項目がある。
41. 建物は一体でなく、棟にわけて
42. 高さは、周囲をみて決める
47. 中庭を生み出すように棟を配置する
49. 棟(建物)は、次々と連結する
50. 四間、四間、四間のルール
53. 屋根のある建築
55. 建物の正面に連続させて街路空間を形づくる
56. 庇下空間を開放し、連続させる
62. 中庭を店づくりにいかす----中庭をつくるとオシャレな店となる。
一例として、50項目の「四間、四間、四間のルール」では、4間から12間のウナギの寝床式の歴史ある日本家屋では、平面図(左端)のように殆ど 建物が立っていない中庭の存在が特徴的である。土地の人は、建替えに際してもこのルールをまもってきたが、外部から来てこのルールを知らな い人は、平面図(右)のように建築基準法通りの建物をつくった。そして北側条件が悪くなった。
    

  川越では、いまでも存続しているこの町並委員会で合意後、一軒一軒店を直していった。この町は、NHKのドラマ「つばさ」でも紹介されたが、商店街も順調に売上を伸ばしている。

 

  ≪ケース2≫ 長浜黒壁
 滋賀県の長浜では、黒壁地区にある建物(写真 下左、1987年)の保存運動が始まった。この建物は、栄えていたときには町のシンボルであったが、 所有者が次々と変わり、最後は教会となったが、ここも手放すことになり、不動産屋はこれを駐車場にしようとした。これを聞いた町の人達の間で、 ランドマークとしてきた建物なので、保存したいという声が上がり、署名運動が始まった。署名簿の提出を受けた市の担当課長は、市が買取っても カビ臭い資料館になってしまうだけなので、市が全面的に応援するから市民で利用したらどうかという素晴らしい助言をしてくれた。これを受けて、 中小企業のオーナーが主体である署名運動のリーダー達も頑張ろうということになった。
 当時、周辺の商店も衰退しており、年商2,000万円程度となっていた。このため皆で相談し、歴史的な町ではあるが、全く違う産業であるガラスを 入れようということになり、ガラスをテーマにして複合開発した。すなわち、1階は買いやすいガラス製品を並べ、2階はガレ等の工芸品的な価値の あるものを置いた。さらに工房をつくり、レストランも併設して、小さいながらも複合開発した。このため、かなりの金がかかり、運営を維持するためには、 1.2億円程度の年間売り上げが必要となった。当初は、頑張っても売り上げは、8,000万円程度と予測されたが、赤字分は、全員でリスク負担しようと いうことになった。ところが、現実には初年度から30万人が訪れ、1.2億円の売り上げがあり、以後倍々ゲームで増加し、現在は200万人が訪れ、売上 は7億円位になっている。
 

  長浜黒壁では、ガラス館、ガラス工房、鑑賞館、ギャラリー、古美術館、郷土料理、ビストロ、観光情報センターなど多様な事業手法を取り入れた。 黒壁改修に当たっては、重要な建物は買取り、後は買ったり借りたりして直していった。ビジネスモデルとして、町づくり会社は、投資をするとともに タウンマネジメント(空き地、空家の確保,広義の再開発等)を行い、開発利益が出るとエンジンのスターターのごとく、これを循環して再投資をした。 長浜のように町が衰退しきっていて、通常の民間投資が始まらないような町とか、駐車場や子育て支援のように収益率の低いものがある場合には、 行政が様々な支援を用意している。また市民がコミュニティボンドあるいは出資のような形で応援するということで町づくり会社がスタートすることが 可能となる。うまく行けば、当然税金として戻ってくるし、町の中のアメニティや利便性が増すので、市民のためにもなる。ということで大きい サイクルが動き出すことになる。長浜は、黒壁でやっているのと同時に表参道商店街及びIGO商店街のアーケードも整備された。市も「お花館」という物産館をつくった。 なお、長浜では再開発部に本来は住宅をつくりたかったが、町屋に住むことには踏み切れず、町屋スタイルのホテルをつくった。

≪ケース3≫ 高松丸亀町
 高松は、四国の玄関口として栄えたが、瀬戸大橋ができたため宇高連絡船の発着場は必要がなくなった。その頃大型ショッピングセンターが近くにできた ことに地元の人達が危機感をもって立ち上がり、全国で初めて法定再開発制度を利用して「第一種市街地再開発事業」を立ち上げた。 高松は、歴史のある町で海に浮かんだように城がある。城からまっすぐに伸びた一番良いところを商人地として、商都として発展させてきた。ただ、 戦災で焼け野原になり、建物はなくなったが、地割(60mx30mのモジュール、合計4ha)は残った。丸亀商店街では、丸亀町々会と丸亀町商店街振興組合 とが全く同じ組織であった。したがって自治会のように商店街を運営してきたことが成功の秘訣であると思う。この商店街は、7つの部会に分かれて、 定期的に集まっていた。再開発に当たっては、通常の開発ではありえない道路を挟んだ構想が最初からあった。また、1992年当時、日よけアーケードの町 だったので、ミラノのガレリアのようにしたいという意見は、すぐに賛同が得られた。また、ショッピングセンター同様に自分達もきちんとゾーニング しようとした。これは、20年前としては進んでいた。2000年にたてられたデザインの基本3目標は、
@ にぎわいの広場 (プロムナード、出窓、広場のベンチ、アルコーブ等)
A 街中で自然を感じる
B 快適な都市型住宅であった。
当時、再開発は高度利用地区が前提となっているが、 本来これは周辺に空地をつくって真中に高い建物をつくるよう誘導している(下図左端)。高松の場合は そんなポテンシャルはないので、使い難いがこれに依るしかなかった。当初1mづつセットバックすることにしたが、隣接する町の道路幅が11mであったため、 都市再生特別措置法による緩和措置を受け、 街並誘導型地区計画として、 いったん指定された壁面をかえて1.5mセットバックし、当初の8mを11m幅に広げた。 一方、規制緩和して道路をアトリウム空間とするとともに道路を挟んだ民地間の工作物(ブリッジ)についても許可をもらった。ここでは、結婚式を挙げることもできる。

      また、美しく快適でサスティナブルな都市空間は、適切な規模の建物が一定の規範に従って街並みを構成することによって実現する。デザインコードは、 デザインを行うに当たっての規範(ルール)であるが、個々の建物が一定の秩序に則りながらも、個性を競い合うことが重要である。従って、このデザインコードは、 「秩序と多様性の両立」を可能にするパターン・ランゲージニューアーバニズムなど アーバンデザインの新しい理論に基づいて組み立てられる必要がある。

<デザインコードの考え方(2005)>
 ・ 街路を快適な広さの歩きやすい空間にする
 ・ 建物が適切な囲みをつくって街路空間や公共空間を形作り、人々の自然なコミュニケーションが生まれるようにする。
 ・ 風土に合ったサスティナブルな素材を活用する。
 ・ 敷地の大きさ、敷地内の棟の配置、建物の形態,外構、仕上げ等についてデザインコードを定める
 また、今後のBC地区への適用に当たっては、街区全体をまとめる法定開発ではなく、エリア全体の地区計画に基づいて、小規模連鎖型再開発を始めた。 なお、BC地区再開発に当たっては、「スケールよりセンス」、「LOHAS/ロハスに暮らす」、「みどりと憩いを実現する」ことなどを重視している。

<事業スキーム> 
事業に当たっての基本合意としては、自分達は土地はすでに所有しているから土地代金は必要ないことである。建物をそれぞれがペンシルビルを建てるのではなく、 共同で建てるのであり、その建物の建設資金に公的な支援があれば、市民のための広場や安い家賃が実現し、不足業種も導入できる。そうすれば事業は成功する。 土地はそのまま(土地から土地への権利変換)で、その上に公的支援が受けられる町づくり会社が建物を所有する(全館保留床)。
この仕組みの特徴は、下記の通りであり、土地/建物を交換するこれまでの再開発とは異なる。
・ 商店街が事業主体になることによって土地のイニシャルコストへの反映を最小限に抑えることができる。
・ 権利者は、土地の運用をするまちづくり会社に委ねることによって運用益を地代として得る。
・ 事業主側からみるとこの運用益/地代が土地の事業におけるランニングコストとなる。
・ 商店街=権利者=事業主体(まちづくり会社)であり、土地のランニングコストがコントロールできる。
従来の方式では、余った床の外部処分が必要であり、成長期には1969年の「再開発法」が適している。地方都市の場合は、土地が減って建物と交換されることに不安 をもつとともに、最低でも500%の高容積建物にならざるを得ない。この方式を採った地方都市ではテナントが入らなかったため、全て失敗した。この反省から適切な 建物を適切な規模で適切な位置につくってゆくと全体が活性化するのではないか。例えばある地区に100戸のニーズがあるとした場合、1棟に100戸をつくるのではなく、 地区全体で分散してやってゆく。これは、地方だからという話もあるかもしれないが、東京でも同じだと思う。低層市街地があって、全体を更新してゆくことが重要である。 この場合、土地と建物を交換せず、定期借地権を設定し、土地の利用権を共有化してゆく。利用から出てくる収益は、皆で配分してゆく方式をとる。丸亀町はこの方式を採った。 長浜も建物の一体化はないが、この方式を採っている。

     <権利変換>:従前土地や建物をもっている人が全員再開発に参加し、転出しない前提で計画したが、止むを得ず転出(売却)者が出た場合には、その人達のものを 普通は有価価格に反映させてゆくが、丸亀の場合は、SPC(コミュニティ投資会社)を設立し、この会社が買ってゆく方式を採用した。その会社は、地元の人のほか 都市再生ファンド等に出資してもらって、うまく行けば又投資をするという「持続的開発」を指向した。 建物に関しては、地方都市の場合には、公的支援が用意されているので、これらをうまく利用する。しかし、補助金はちゃんと税金という形で返している。税としては、
固定資産税、まちづくり会社及び各テナントの法人税がある。その他、消費税、雇用が始まるので所得税が出る。ということで合計するともらった税金は、7年で返すことができる。
タウンマネジメント・プログラム」のまとめとして以下の7項目をあげたい。
@ エリア(範囲)の考え方 A 主体/組織 B 土地問題と権利調整 C 資金調達と投資家の見つけ方  D ビジョンとプロジェクト E 都市空間デザイン F 専門家の役割 @ 都市の骨格を際立たせるエリア(範囲)の再生
 都市の中で一番重要な場所(高松の場合丸亀町)をきちんとやってゆくことが、大切である。
人が住んで仲間と考えられるのは、丁度一つの商店街に相当する数百mの範囲であるが、このくらいの単位で考えるのが成功のカギである。
やはり歴史ある町である山口市は、行政人口19万人、実態は15万人であるが、まだ百貨店も残っている一方、空店舗、空地もあるのでどうしようかということになり、 バラバラで考えるのではなく互いに効果を生むようにする必要性が認識された。スーパーが出て行った跡地は、昔ながらの生活の基盤のような市場をもう一度ちゃんと つくってゆこうということになった。
沼津市の場合も、駅から離れていることもあり、商店が衰退していた。美観地区の指定を受けて共同ビルをつくったが、道路の上に建物をのせたため、老朽化に伴って 下の歩道を通る人が危険になり、再開発の話が持ち上がった。この際従来の土地/建物交換方式にすると街区全体で300億円かかり、1階の家賃が1.5万円位にしないと 成立しないことが明らかになった。ところが対象区域内の道路面積が約40%あり、幹線道路ではないので、この道を広場のように考えてみようということになった。 丁度米国の西海岸で始まったライフスタイルセンターとよばれる、1階が店舗、上が住宅となっている新しいスタイルのショッピングセンターを沼津の人達が見て、 自分達もこういうことならやりたいという話になった。高松方式で試算した結果、全体コストが120億円になり、家賃も5,000円に収まることが分かり、事業は進んでいる。
A 主体組織の考え方。
米国の「ブラッドレーモデル」では、機能分担が行われているが、長浜にも多数(10社以上)の会社がある。高松も従来振興組合というものしかなかったが、 まちづくり会社をつくり、タウンマネージメント委員会をつくり、それぞれの街区にいくつかの会社ができた。
B 土地問題と権利調整。
高松の土地代は、ピーク時の坪2,000万円から100万円まで下がったが、5万円だった家賃は、1/20にはならず、1.5万円位に留まっている。これは逆に利回りは 上がっていることになる。このため、町全体に定期借地権を設定した。そこからあがってくる収益を見ながら皆さんに配分する。
<土地の使用と利用の分離>
C  資金調達と投資家の見つけ方
・ 地域社会から投資家を募る
・ 再投資の仕組みを構築する。
従来型再開発では、補償・転出型といって、皆が出て行ってしまうことが多い。東京などでは、その分をディベロッパーが買ってくれるが、ディベロッパーは 最後までは責任をもたない。やはり住民が納得して参加するような仕組みにしないと続かないのではないか。従ってこのようなシステムは東京でも成り立つのではないかと思う。
E ビジョンとプロジェクト
 町づくりの目標と方針は、デザインのルールを定め、事業の仕組みをつくり、MD(マーチャンダイジング)戦略(ゾーニング)を練ることである。
F 専門家の役割
@ 第1段階
・計画段階 ・ワークショプによる ・戦略ビジョンの共有
A 第2段階
・事業実施 ・専門家チームによるコンストラクション・マネージメント---つくった後が大変
B 第3段階
  ・運営段階 ・専門家チームによるアセットマネージメントプロパティマネージメント
F 都市空間デザイン
・中間領域(セミパブリックな空間)を随所に ・街路を広場に
・建物の周り、建物(棟)と建物の間にあらゆる外部空間がポジティブになるように配置する。つまり、建物を周囲に寄せて空間を取り込む。
                                 
以上(文責:荒木)
 
追記(2011.3.28):西郷真理子女史は、 2011MIPIN(国際不動産見本市)アワードを日本人として初めて受賞されました。